運命への信仰
本当にわれは凡ての事物を,きちんと計って創造した。
(聖クルアーン)
無から有を創造せしアッラーは、天地の生きとし生けるものを因果の律のなかに定められた。因果の律は、理性を持つ人間にとって、その背後にある神の叡知や真理に至る標となる。したがって、注意深くこの宇宙を見定めれば、そこには混沌などと呼ばれるものではなく、運命とも呼べる完璧な秩序と均衡が存在することに気がつくだろう。この超越的均衡こそ、創造主の存在を指し示しているに相違ないのだ。
運命を信じることは、イスラームの信仰の柱である。それは、善悪、正邪、生死問わず、この世に起こることの全てはアッラーの意思、権能、創造によって創られしものであることを、受け入れることだ。
生きている限り、変えることのできないような、どうしようもない現実に直面することがある。例えば、人は生まれてくる両親を選ぶことはできないし、民族、肌の色、性別もまた同様である。これらは神命により定められた現実であり、運命(カダル)と呼ばれる。
一方で、人には良いものであれ悪いものであれ、選ぶことのできる現実もある。人間は、アッラーの無尽蔵の叡知の内から、住む場所や行為を選択する権利を与えられている。人間は、善と悪を選択する力を持っているのである。したがって、人間が決め、選択した行為によって、アッラーから与えられる報いは変わる。人間が意思を以て行為を選択する能力を持つこともまた、神が定めた法である。
この世で起こることは全て、アッラーの知識の中にある。我々が何を選び取ってどう生きるかもまた、我々がこの世に創造される以前から、かの御方の万古の叡知の中に存在するのである。しかし、それは枯葉が風にさらわれるように、我々が意思のない存在であることを意味しない。アッラーがこれから起こることを全て知っているからといって、我々は選んだ生き様に対して責任を負っていないわけではない。例えば、人が盗みを働いたとき、それは彼の意思で行われたことであって、アッラーがこれからその人が盗むことを知っていたためにものを盗んだわけではないだろう。人は、自らが選び取った悪行の報いを受けるのだ。
二つ世での人生の結果を分けるのは、各々が選び取った生き様である。人は、善を選び取り、悪を避けるように努めなければならない。なぜなら、何人たりともそれが運命だったからなどと言って、自らの行いの報いから逃げることなどできないからだ。
運命を信じる者は、この舞台の真の役者はただアッラーのみであることを理解する。預言者ムハンマドは、次のように言われた。
「知りなさい。この地上における全人類があなたに益をもたらそうとしたとしても、アッラーが定めた領分以上の益をもたらすことはできない。また、この地上の全人類があなたに害をもたらそうとしたとしても、アッラーが定めた領分以上の害を与えることはできない。人の運命について、それを定めるアッラーの筆は既に紙から離されて、紙上のインクは乾いているのだ。」
運命を信じる者は、雨が特定の気候条件で発生することを知っているが、神の御業が物理条件に制限されないこともまた知っている。雨は一瞬ごとにアッラーによって創造されており、雨を創造する意思、神命、創造行為はアッラーのみに属するということを、ムスリムは確信しているのだ
イスラームにおける運命とは、特段努力をせずともただアッラーの配剤を待つことで成功するような、約束された未来があることを意味しない。運命を信じるということは、与えられた使命を果たすということである。人々は、定められた責務を全うするため、断固とした意思をもって、忍耐強く生きなければならない。あらゆる人事を尽くした後に天命を待つのだ。
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